パソコンに向かっている今この瞬間、わたしの心は、とても穏やかで落ち着いている。
まるで、水面に小さな波も立たない、凪(なぎ)のように。
心の中が不安と不満と絶望に埋め尽くされ、トゲが刺さっているような感覚は、1つもない。
(まるであのときとは、別人のようだ)
===========
フーッとため息をついて、大きく背伸びをする。
上を向いて、首を傾け、手を上に伸ばしてストレッチをする。
パソコンチェアがギギッと音を立てる。
(そういえば、このチェアも、旦那と一緒に古道具屋で買ったっけ)
ぼんやりと、そう昔でもないことを思い出した。
===========
さざ波のような、心がざわつき、ネガティブな感覚に飲み込まれそうなときは、今もときどきある。
けれど、必ず戻ってこれるという確信がある。
「わたしは、ネガティブな感覚を選ばない」という自信がある。
なぜなら、わたしは“あの時期”を乗り越えたのだから。
これは、今から1年前、30代女性が1歳の子どもを連れて家を飛び出したことから起こった、超個人的な話だ。
【良性発作性頭位めまい症の体験談】ある日、世界が回転しだした
冬が終わりを迎え、桜の開花に関するニュースが、ちらほらと目に入るようになった時期のある日。
立ち上がろうとした瞬間に、視界がぐるぐると回り、立っていられない。
「…まじで、なにこれ」
初めての感覚だった。
耳の奥がキーンと鳴り続け、視界が回転して、パソコンの画面上に書いてある言葉の意味が理解できない。
額のあたりが、まったく別の生き物のように、回転している感じ。
ライターとして仕事をしているわたしには、致命的な状態だった。
「言葉の意味が、一つも理解できない…」
そう、文章の意味が分からなかった。
そのときの絶望的な感覚は、「あいうえお」のどの言葉でも説明することができない。
(仕事もクビになるだろうな)
とうっすらと思った。どうしよう、わたしには1歳の子どもがいるのに。
旦那がいるから大丈夫という感情は、一切なかった。
わたしは自分と娘を守るために仕事をしていたのだから。
わたしは、「もう限界だ」と思った。
良性発作性頭位めまい症の体験談:医者を2件はしごして発覚した
「良性発作性頭位めまい症」と診断されたのは、それから5日後だった。
薬は効かない、行動療法しかない、と耳鼻咽喉科の医師に言われ
「かなりきついと思うけど、とにかく目眩をおこして。そうしないと治らないから」
(どおりで、この前に行った内科の薬が全く効かないわけだ)
と思った。原因は不明だが、間違いなくストレスだろう。
良性発作性頭位めまい症の治し方
治し方に関しては、医師によってさまざまだと思う。
あくまでも、私が言われたのは、「行動療法しかない」ということ。
つまり、薬がないので、目眩をたくさん起こして、ズレてしまった耳の中の耳石を元に戻すしかないということだった。
病院によってさまざまだと思うので、まずは信頼できる耳鼻咽喉科に行ってみましょう。
【良性発作性頭位めまい症の原因】旦那への信頼感はゼロだった
当時、旦那への信頼感はゼロだった。
仕事はできる人だが、“自分が正しいと思ったこと”を、何が何でもやらないと気が済まない。
それがたとえ、わたしが「嫌だ」と伝えたことでも、やってみないと気が済まない。
そりゃそうだ、その押しの強さと行動力が仕事で評価されているのだから。
扶養の範囲内で働いているわたしの声など、仕事主義の旦那には、一切届かない。
共働きでバリバリ稼いでいる女性が好きであろう旦那は、わたしを下に見ていたのだと思う。
それがたとえ、子どもを妊娠して、初めての育児で戸惑い、育児家事をしながら、寝不足で働いている人間だとしても。
「効率的にできるんじゃないの?」「なんでこうしないの?」
と言われ、何も言い返せなかった。
言い返す気力もなかった。
恨んでいた、とても。
ただただ、労わってほしかったのだろう。
ここには書けない、心がえぐられるような、たくさんのことがあった。
そんなある日、大喧嘩をして、身体も心も限界だったわたしは、置手紙を残して、子どもを連れて実家に帰った。
駅で両親を見つけたときは、年甲斐もなく、大泣きした。
大量に出血して、身体がバラバラになるような痛みに耐え、子どもを産み、ほぼ寝ずに育児をして、つねに「子どもが死なないか」と気を張り、家のことも頑張っていたのに、
なぜ、こんなことになってしまうのだろうか、とむなしさと悔しさと悲しみを感じていた。
車に揺られると、1歳の子どもは疲れていたので、ぐっすりと寝ていた。
夜を迎える、薄暗い明かりの中、ヘッドライトが照らす風景は、10数年前となんら変わってはいなかった。
(帰ってきちゃったんだな)
と、ぼんやりと思った。
良性発作性頭位めまい症をきっかけに、好きになれなかった故郷に帰ってきた
仕事はフルリモートだったので、上司にありのままを話し、実家で仕事ができるようになった。
この人は、仕事ができるだけではなく、人の心に寄り添ってくれる数少ない大人だと思う。
命の恩人だと、心から思う。
寒いところにある故郷は、決して“好きなところ”ではなかった。
18歳で上京した時の解放感は、今でも覚えている。
「じゆうとはこのことか!」と、毛穴の隅の隅まで、全身で自由を感じていた。
「OIOI」を「オイオイ」と読んでいたけれど、「そうなんだ…!すごい!」と感動したものだ。
何もかもが、自分の意志で決められる、電車に乗ればどこにでも行ける。
とても刺激的だった。
なぜそんな風に思っていたのか、この理由は、のちのちはっきりと分かるようになる。
そんな人が、10数年振りに故郷に住むことになった。1歳の子どもと一緒に。
(人生、何があるか分からないものだな)
と気楽な気持ちで思っていた。
===========
目眩は2カ月も続いた。
その間も、さまざまなことがあった。
わたしの頭の中は、離婚、シングルマザー、貧困など、主にネガティブな感情で日々埋め尽くされていた。
でも、旦那と離れたことで、ほっと安心したのか、倒れこむように寝れるようになった。
これが功を奏して、不思議と気持ちに余裕が出てきた。
子どもを出産してから、数時間もまとまって寝るのは初めてだった。
というよりも、私の人生の中で、こんなに寝ているのは初めてだったと思う。
「旦那とのことは置いといて、まずは自分のことに集中しよう」
ふとこんな考えが浮かんだので、夫婦間のことは、全部放り投げることにした。
転職を考えるも「軸がない」ことに気が付く
どちらにせよ、シングルマザーになるのであれば、娘を育て上げないといけない。
そのためには、「経済的自立=仕事だ!」と思い、転職を考えた。
- 「稼げる仕事だ!」と思いプログラミングスクールを調べまくる
- 地元での就職も視野にいれて求人を知らべる
- データサイエンティストがよさそうという“なんとなく”でスクールの受講を考える
など、「完全に軸がない」状態だったのだ。
東京で自由気ままに生きて、仕事をして、自分で選択をしてきたはずなのに
なぜか、軸がない。
“なにがすきなの?”
“あなたがやりたいことは?”
“ゆめは?”
こんな問いをかけられたら、あなたはなんで答えるだろう?
わたしは、その場しのぎでさもありそうなこと、を言っていたと思う。
つまり、本気のことがなかったのだ。
- 楽に生きていきたい
- 不労所得があれば楽そう
- 稼げればいい
と、適当に生きていたのだと分かった。
(これじゃダメだ。何も変わらない)
“自分を変える”必要がある、と思った。
こんな自分が本当に嫌だ、と夜中に泣いたこともある。
あいつのせいだ、なんでこんなに合わないといけないんだ、と夜中に人を恨んだこともある。
今は、その気持ちはない。
そして、自分を変える必要がないというのも理解した。
なによりも問題だったのは、“自分のことを知らなかった”ということだ。
そしてわたしは、家族について自覚して、自己分析のために「自己理解プログラム」を受講することにした。
これと、その他にさまざまな要素が加わり、自分の心の声を取り戻すことができた。
「自己理解プログラム」については、今度詳しく書こうと思う。
母親が毒親だと初めて気が付く
その間も、家族の間でさまざまな問題が発生した。
主に「母親」との関係性だった。
(この人、毒親じゃない?)
と30年以上生きてきて、初めて思った。
今思えば、
- 父親の悪口をえんえんと聞かされる
- 怒る=殴られる
- 何かを聞かれた覚えがない=わたしに興味がない
- 「こうしなさい!」がとにかく多い
- 他の人の悪口が多い(TVを見ていても)
- 「親の言うことを聞きなさい」が多い
こんな人だった。
そして、わたしの前で「寂しいのよ…だれも私のことなんて分かってくれないのよ」と言いながら、泣くような人だった。
ただ、明るくて華やかな人なので、友達も多い。
しかし反面、こういった「支配的な面」が強い母親だった。
(すっかり忘れていたけれど)殴る、叩かれる、怒鳴られるという環境で育ったわたしは、性格がどこか歪んでしまっていたのだと思う。
それは主に、男性不信につながっていた。
父親の悪口(愚痴)を聞かされていたわたしは、父親を好きになれなかった。
というよりも、
(大好きな父親なのに、大好きな母親を泣かす人、だから好きでいちゃいけないんだ)
幼いころからそう思っていたのだと思う。
そして、それを他の男性に求めてしまっていたのかもしれない。
(なるほどね)
と大きく納得した。これは、わたしの心のトゲを一つ外してくれた。
それから、潜在意識のワークや、毒親のワークに取り組んだ。
これは、直接的に心に平穏をもたらしてくれたわけではないけれど、かなり効果があった。
そして、自分自身がなぜ「長年生きづらさ」を感じていたのかを理解した。
「わたしの子どもには絶対に連鎖させない」と、心に固く誓っている。
そして、ここで分かったことは、
- 依存と執着
- 人生の軸
- 主体性
ということだった。
そして気が付いたのが、「わたし、人生の主導権まで旦那に預けてじゃん」ということだった。
これは、わたしの中で「ぱんぱかぱーん」というファンファーレが鳴るほどの気付きだった。
そう、眠いし疲れているし、子どものことを考えなきゃだし、で「主人のいうこと聞けばいいか(どうせこっちが何を言っても聞いてくれないし)」を優先したのだ。
わたしは、「自分の心を後回しにしていた」という大問題に気が付いた。
「自分の人生を他人に預けるってどういうこと!?」と、わたしの中のギャルが叫んでいた。
そう、それが一番の大問題だった。
わたしは、無意識に人に依存して執着していたのだと、やっと気が付いた。
「自分の心を大事にしないとダメだ」と、心から思った。
だから目眩が起きて「おーーーい!自分を大切にしてーー!気が付いてーー!」と身体が悲鳴を上げてたんだと思った。
続く
コメント